2006年10月10日 (火)

「国際シンポ」速報2-感想

今回のシンポは、医療関係団体の方も参加してくださって、ご発言してくださいました。日本精神神経科診療所協会の先生や日本精神神経学会の先生からの率直な発言がありました。また、日本精神科病院協会の先生も参加しておられました。なかなか、緊迫したディスカッションでしたが、医療と心理の関係者が直接に意見を交し合うこの機会は、本当に待ち望んでいたものでした。医療関係の皆さんの意見にはまだまだ理解をいただくまでの距離も感じましたが、このような議論を重ねることの大切さを再認識しました。

今回のシンポの中で、すべての先生が強調されていたのは、心理学独自の専門性とその対人サービスがあり、それは医療のサービスとは異なるものだ、ということだと思います。この点を、海外の先生はさかんに、心理士の立場はfree(フリー)である、と強調していました。この意識はわれわれにとってはなじみのある考えと思うのですが、医療の方々からはやはりわかりにくいのでしょう。

フロアーからは、社会福祉士の方からの発言もありました。この発言は、私は聴いていて、思わず涙が出てきました。ソーシャルワーカーが医療の分野に入ることの困難さの歴史と、医療に入るならばと条件を提示され(医療関連科目を大幅に履修することを要求されたとのこと)、それではソーシャルワークの独自性を保てないということで話を断ったという話、その結果「100年は医療の世界には入ってこれない」と言われてしまったという話でした。まさに、同じようなことが心理の世界でも起こっていますね。

国家資格問題は、自分(心理士自身)のためとか地位向上のためということではなく、心理学の知恵を質の高いサービスとして享受する国民の権利を、守ることができるかどうかということとイコールであると再認識しました。海外ではそのような国民の権利を保障する法整備を整えたところが多いです。さて、日本は?ということですね。

どうぞ、皆さんのご意見、ご質問をおよせください。

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「心理専門職に関する国際シンポジウム」速報1

本日(2006年10月9日)、東大の安田講堂で、シンポジウムが開催されました。

参加者は400名ぐらいだったでしょうか。熱気のある会でした。

詳しい内容は追ってご報告しようと思いますが、参加した感想を少しだけ・・・。

はじめに、河村健夫先生(国会議員)からのビデオでの挨拶がありました。臨床心理士の役割の重要性に触れながら、「今度の臨時国会で、前回用意した法案を提出できないか調整中である」という力強い言葉をいただきました。

海外から参加のAlfred Pritz(世界心理療法協議会会長), Peter Kinderman(リバプール大学), Orjan Salling(スウェーデン心理学協会理事長)ともに、それぞれの国の心理職国家資格の重要性と大変さなど、いろんな話を語ってくれました。

Pritz先生は、心理療法家がなぜ政治的な動きが苦手がという心理的検討から始まり、心理職が政治的に動くことが、クライエントや国民のためになるという話をとてもわかりやすく語ってくれました。また、心理職の国家資格の標準的な姿を提示してくれました。

Kinderman先生は、英国の臨床心理の資格化の動きをとてもわかりやすく説明してくれました。医療とは異なる心理士の役割について、たとえ精神障害であっても障害にいたる心理的プロセスの見立てと介入については、心理士の役割であると明確に述べてくれました。

Salling先生は、スウェーデンの国家資格化の経験を説明してくれました。さすがに福祉国家のこともあるでしょう、理想的な心理職国家資格化を達成しています。心理職養成のカリキュラムを少しずつ拡充して、質の高いものにしていく粘り強さは印象的でした。

日本からは、乾吉佑先生が日本の国家資格の検討の歴史と現状をわかりやすくお話しくださいました。臨床心理職を医行為とするかどうかについての議論についても、その経緯を丁寧に説明してくれました。平木典子先生は、心理学諸学会連合の動きについてお話くださいましたし、亀口憲治先生は、システム論な観点も含めて、より大きな視点から国家資格化を議論してくださいました。

(これは私の個人的なまとめです)

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2006年1月 9日 (月)

臨床心理士会ワークショップでの国家資格に関する講演

昨日(もう一昨日、2006年1月8日(日))になりますが、

日本臨床心理士会主催の「第13回医療における心理臨床ワークショップ」において、

「臨床心理士の国家資格をめぐる諸問題」と題する講演が行われました。演者は、心理職国家資格問題についてその経緯を熟知されている、心理士会統括副会長の乾吉佑先生でした。

午前中の2時間をかけての講演で、心理職国家資格をめぐっての40年以上前からの経過の説明や、なぜ国家資格が困難なのかという情勢分析、昨年の国家資格をめぐる動きなどを、非常にわかりやすく説明してくれました。

会場にはたぶん1000名近い(?)臨床心理士が参加していました。資料などとても参考になると思うので、参加した人が近くにおられれば、ぜひ資料をみせてもらうとよいでしょう。

講演の内容に関して、ここで整理して正確にお伝えするのは、私には無理なので、講演を聞いて印象に残った点をいくつか・・・(ですから、あくまで文責は私です)

まず、非公式およびブログ上で国家資格に関する情報や考えを知ることは多かったのですが、公式の場で臨床心理士会幹部の先生から、ここまで丁寧に話を聞けたのははじめてでした。とてもよい機会だったと思います。国家資格をめぐる半世紀近い「戦い」の歴史を知ることで、いろいろと考えさせられました。

国家資格を作るためには実績を作ることも重要ということで、資格認定協会、スクールカウンセリング(SC)事業、臨床心理士会(職能団体)、県心理士会、指定大学院などを作ってきたが、それらの実績作りの中で問題も生じている、というようなことをおっしゃっていました。この認識がきけたことは、私にとって少し救われる思いでした。このあたりのニュアンスは講演を直接聞いていないとわかりにくいかもしれませんが、SC事業や指定大学院の一部の問題などを見聞きして心を痛めている(し何とかならないかと気をもんでいる)私として、自分のやれることをやっていこうと、少し励まされた感じです。

実績作りのためにがんばっていたら、一方で「民間資格なのに」などと言われてしまう幹部の方々の大変さに、少し共感してしまいました(共感しすぎかもしれませんが・・・)。

医行為か医行為でないかの長年の議論が、国家資格を妨げる要因のひとつであるという話は、今回も強調されていました。その中でカリキュラムの話が出て、診療補助職の理学療法士では、医療関係科目が89%、言語聴覚士では医療関連科目が45%などとなっているということ。診療補助職となると、医療関連科目の割合が多くなり、それが心理職の養成としていかがなものか、といったお話でした。この点は、私もこのブログで、過去に問題提起している点です(教育カリキュラム)。臨床心理専門職のアイデンティティの認識と、養成カリキュラムとは密接に関係すると思います。

昨年の国家資格検討の中で、医師の指示に関して、「病院、診療所で医行為に伴う業務を行う場合は、それが医行為ではなく責任の所在を明確にするということで”医師の指示”としていただいてよい」という見解が示され、この見解はこれまでの臨床心理士会の見解からすると一歩踏み込んだものだということも強調されていました。この内容は、骨子にも反映されましたね。心理士会として大きな譲歩だったと思いますが、乾先生から丁寧な説明がなされました。

私の意見ですが、これは「みなし医行為」ともいうべき新しい法的概念ではないかとさえ考えてしまいます(あくまで私の意見ですよ)。保助看法を一部解除せず、しかし医師の指示下におくという方法ですね。これには似た前例はあって、管理栄養士は近い形をとっていると思います(似たようなコメントはたくさんいただいていますね)。この考え方は今後も維持されるような感じです。

あと、乾先生としては、前回検討された法案骨子は「流れた」のではなく、検討が「止まっている」という認識であると強調されていました。今後、この法案がどのように扱われるか要チェックということなのでしょうね。

ニュアンスが違う点もあるかもしれないので、参加した方々の修正などコメントをお願いします。なるべく多くの人に情報を知ってもらいたいので、ここに印象記ということで記しました。

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2006年1月 6日 (金)

日精協の心理職国家資格に関する動き

すでにご存知の方も多いと思いますが、日本精神科病院協会において、心理職国家資格のための検討チームが立ち上がっていますね。

日精協のホームページの月間予定の2006/1/18欄に
「医療保健心理士(仮称)国家資格制度に向けた専門対応チーム 17:00〜」
の予定が入っています。 
(医療と心理士の間に「保健」が入っています)
過去の予定をみると、2005/12/1にも同じような会が開かれていますので、すでに検討がスタートしているのでしょうね。

どのような内容の検討がなされているか、ぜひとも情報公開してもらえると幅広く議論ができてよいかと思います。情報をお持ちの方はぜひともコメントをお願いいたします。この検討チームで幅広い意見を集約するために、多分野からの意見収集のヒアリングやシンポジウム等が企画されるとうれしいです。

特に、国家資格の範囲(医療限定か汎用か、医療限定にするにしてもその範囲)、学歴(「大学院」か「学部+研修期間」か)、医行為との関連(保助看法解除、医師の指示)などについて、どのような議論がなされるか注目しています。どうかこれまでの議論の枠を越えて、幅広い視点から検討がなされることを期待します。

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2005年12月 5日 (月)

こころの支援と医学モデル

今から20年前の話ですが・・・。

ある新聞に、「不登校の多くは(精神分裂病(当時)のような)精神疾患を有する」といった記事が一面に載ったことがあります。医学的治療が必要な群が含まれているのは事実ですが、多くは統合失調症という見解はさすがに厳しいところです。社会の心の問題を、医学モデルでみようと無理した一例です

DSMができて、さすがにへんてこな診断がまかり通ることはなくなりました。
しかし、DSMに定義された診断であっても、
その医学的実体がどの程度あるのか疑問な診断カテゴリーもあります。たとえば、人格障害のカテゴリーの中には、はたして疾病単位として成立するか首をかしげるものがあります。

診断→治療という医学モデル介入には、非常に強力なパワーと有効性があります。しかし一方、医学モデルのみの枠組みでは、充分にとらえきれない社会と心に関する現象もあるという認識が、重要と考えます。
 
自殺予防に対する支援を話し合う時に、最近しばしば問題となるのは、「自殺予防対策=うつ病対策」となることです。もちろん、自殺者の中にうつ病の人が多いのも事実と思いますが、うつ病対策(医学モデル)のみでは、有効なうつ病予防対策を打ち出すことができない。医学モデルから学ぶことは多いのですが、社会の中のこころの支援を論じるにはそれだけでは決定的に不足していると考えます。

確かに、心理臨床の世界にも、医学モデルに基づいてこころの支援を整理しようという動きがあります。米国心理学会(APA)の第12部会(臨床心理学部会)が、1995年にガイドラインとして出した「十分に確立された介入法」などをみると、精神医学的診断別の介入法が議論されていて、医学モデルに基づいて心理臨床の介入を整理していることがわかります。

医学モデルに基づく介入法の検討が重要であることはわかります。しかし、それがこころの支援や臨床心理的介入の基礎と考えるのであれば、それは間違っているでしょう。医学モデルによる実践は、私が現場で行っている活動の一部を占めるにすぎません。医学モデルのもっと根本のところに、「心理臨床モデル」といったものがあると考えます。「心理臨床モデル」というか、「臨床人間学的モデル」といった方がよいかもしれません。そして、そのモデルを土台として臨床心理学が成立しているといってよいでしょう。

「医学モデル」に基づく介入のみでは、病気をみて人(の心全体)を見ずということに陥りかねません。特に、その医療モデルに基礎をおく心理士が、医療心理師法案のような学部4年間で養成されるとするならば、「木をみて森をみず」の傾向はますます強まるでしょう。学部4年間では、技術の習得だけでせいいっぱいですね。人間の心の存在のあり方といった大切な思索をする間もないでしょう。

誤解のないように繰り返します。
こころの支援を行うにあたって、医学モデルによる考察は必須です。その考察のないこころの支援はありえないと考えます。医学モデルに基づいたこころの支援もあってよいと思います。しかし、医学モデルによる介入のみが、心理臨床活動ではないと思います。また、医学モデルに基づいた介入が心理臨床活動の中核ではないことを強調しておきたいと考えます。

このように主張する私ですが、「医学モデル」ではない視点を大切にするよう教えてくれた先生や諸先輩の中に、医師の方々もたくさんおられます。今から考えても、自分の依拠する分野の限界を意識して実践を進める諸先輩には頭が下がります。しかし、「医学モデル」でない視点とは何なのか、その大切さも含めて私にはピンときませんでした。

その後、現場の実践を積み重ねる中で、医学モデルで対応すべきなのにしていない事例にたくさん出会いました。一方、医学モデルで対応すべきでないのに、医学モデルにのってしまい、不適切にゆれている事例にも多数出会いました。それらの事例を検討しながら、医学モデルや心理臨床モデルを意識しつつ、かつ柔軟に展開させていくことの大切さを身に染みて痛感するようになりました。なかなか難しいけれど・・・。

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2005年10月 6日 (木)

「こころへの侵襲性」に関するのひとつの提案

「サイコセラピーのリスク」については、多数のコメントありがとうございます。その議論の本筋とはちょっとずれるのですが、医行為に関することで、ずっと考えていたことなのですが、ご意見をいただければと・・・。

それは、「こころへの侵襲性」に関する話です。すでに社会的文脈で、「こころへの侵襲性」という表現がふさわしくないことが、何度も指摘されています。「体への侵襲性」は医行為の定義として、社会(法)も認めています。しかし、「こころへの侵襲性」は比喩的表現であり、社会において実体のあるものとして認められない、という判断になっていると、私は理解しています。

そこで、こころへの負の影響については、「侵襲性」という言葉を用いるのはやめ、「リスク」という言葉を用いるようにしてはどうでしょう。つまり、「心理学的行為の侵襲性」とは社会的文脈では用いず、「心理学的行為のリスク」と用いるようにしてはということです。

afcpさんや他の皆さんも主張するように、侵襲性を分けることを学問的実体を持って行うことは不可能ということは充分理解しています。その上で、社会という場では、体への侵襲性とは言う(すでに言われていることを容認する)が、心への侵襲性という表現は、比ゆ的で拡大して用いられる表現で外延が不明確となるので、用いないように考えるということです。

そうすれば、

心理学的行為の専門性が高い → 侵襲性がある → 医行為に含む

心理学的行為は医行為でない → 侵襲性がない → 専門性がなくだれでもできる → 国家資格は必要ない

というへんなロジックから抜け出ることができるのでは・・・。

afcpさんもそのあたりを配慮してか、最近のコメントで「リスク」という表現を使ってくれていますね。

つまり話を整理すると、

心理学的行為はリスクを有する → 侵襲性はないので医行為ではない → リスクを充分管理するための国家資格化が必要

皆さんが指摘するように、こころへのリスクには当然体へのリスクに直結するものもあるし(リストカットなど)、心と体をわけて論じることは専門家の中の議論としては不毛です。実際、「こころへの侵襲性」という表現は日常の臨床でよく用いるしとても便利です。しかし、社会の場では、それは比喩的表現にすぎないことを、法的(社会的)議論をする場合には自覚しましょうということです。

ここで問題となるのは、医師が薬物療法や電気けいれん療法などの「体への侵襲」を伴わない精神療法的かかわりを行った場合、それは「こころの侵襲性」を持つと言うべきかどうかということです。私は、医師が病院において行う精神療法的行為は、投薬や侵襲的治療につながる(ことを暗示しうる)という意味で、「侵襲性を帯びる」と社会がみなしていると考えてよいのではないかと・・・。

一方、医師が産業医としてまたは学校医として(つまり医療機関以外で)、相談業務にかかわる場合は、その行為はこの定義では「侵襲性」をおびないので、医行為とは言えなくなるのですが、この点はどうなんでしょうか?医師が行うことはすべて医行為とするのも不自然ですから・・・・。

一方、病院であっても、心理士が心理療法を行う場合は、投薬や侵襲的治療も心理士がおこなう(ことを暗示する)ことはないので、「こころへの侵襲性」を持たず、こころへのリスクを有すると考えるわけです。しかし、医療チーム全体の行為としては「侵襲性」を有するので、チームのトップである医師(管理医)の指示下におかれることになる・・・。

こう考えると、病院の心理士より地域の心理士の方が、医師の指示下におかれないという意味では、高いリスクの中で対応しなければならない(場合がある)でしょう。その分、高い専門性が求められ、国家資格の必要性があると考えられるのかもしれません。

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2005年9月25日 (日)

サイコセラピーのリスクについて

国家資格を議論する中で、サイコセラピー的関与によって起こりえるリスク(危険性)について充分に検討する必要性が議論されています。心理学的行為と医行為との関係を論じる上で、避けて通れない議論です。この点について、いくつかコメントをもらっています。

Afcpさん>ただ一部の医師が恐れている、そして僕自身も心配していますし、これまでに苦労もさせられたことがあるのは、心理療法を受けた、あるいは現に受けているケースが、著しい行動化、退行などを呈し、結局医療で「後始末」をさせられること、でもあるように思います。

bxq2uwさん>afcpさんは控えめにおっしゃっていますが、現に心理療法を受けているケースが著しい行動化や退行を起こすということであるなら、自然経過による増悪という側面があったとしても、少なくとも見立て違いということがあったのでしょうし、そこに起因する関わり方の間違いというのもおそらくあった上でのことでしょう。一言で言って心理臨床として質が低いという問題だと思います。これは質を向上させるということしかありません。どうやって向上させるか、これはまさに心理臨床の重要な課題です。

つなでさん>問題は、人に尻ぬぐいを押しつけるような心理療法(精神療法)のやり方、そのような心理療法の学び方にあるのではないかと思います。医師であれ、心理職であれ、しっかり勉強してトレーニングを積み、何より、勉強とトレーニングの仲間を持たないと、心理療法の実力はつくはずがないですね。心理療法をしている人どうしで、いかに研鑽を積むかということでしょうか。心理職の養成課程がそのような実力のつくものになるために、国家資格化のこともよく考えないといけないと思います。長年の心理療法の試行錯誤の成果が生かされるような養成がなされていかなければならないと思います。

サイコセラピーの持つ効果があることを前提にしながらも、一方で起こりえるリスク(危険性)についてふれてみたいと思います。以下のようになることを防ぐ見立て力は重要ですね。

     薬物療法が必須のケースにサイコセラピーを続け状態を悪化させる

     強い内的葛藤を言語化させ(アンカバーし)、状態を悪化させる

     家族の問題を安易に取り上げ強い家族間の衝突を誘発する

     枠を決めずに依存、退行させ、激しい行動化を誘発する

     強い依存的関係を築きケースが他のリソースを利用する可能性を奪う

     受療中ケースに医療へのネガティブな意見を伝え受療中断を招く

     自傷他害ケースにマネジメント的関与を行わず事故や事件が発生する

     サイコセラピーでは対応できない状態なのに「対応できる」と考え対応してしまう

まだまだあるでしょうし別な表現もあると思いますが、ぱっと思いあたることを挙げてみました。

「①薬物療法導入せず悪化」については、心理療法的関与を行うものとして、常に気をつける必要があることです。心理療法家は、目の前に現れたケースに対して、サイコセラピーを行うことが適当か、それとも薬物療法の導入を第一選択として促すべきか、見立て判断する必要があります。またそのような見立てができるスキルを持つ必要があるでしょう。

 

「②内的葛藤のアンカバー」については、心理療法家のスキルそのものといってよいと思います。共感とか傾聴といった対応のみでは、この問題を避けることができないでしょう。見立てによっては、「聴かない」「語ることの危険性を話し合う」といったかかわりが重要となる場合があります。一方で、サイコセラピーにアンカバーによる混乱はある程度はやむをえないという判断もあるかもしれません。

 

「③家族間の衝突の誘発」ですが、家族に解決力がない若者に、「家族でよく相談してください」とカウンセラーが伝えたばっかりに、家族で大喧嘩になって若者が家出してしまった、こんな私の苦い経験があります。スーパーバイザーには「家族でよく相談してください」と伝えてはいけない場合があるんだと怒られました。

 

「④依存や退行の問題」ですが、これはこれまでもコメントで何度も取り上げられている、サイコセラピーの「副作用」ともいうべきものですね。これに対応するためのトレーニングとスーパーバイズとを、心理士は充分に受ける必要があるでしょう。専門家とそうでない人とを分けるのは、この対応のスキルがあるかないかもひとつかなと考えます。

   

「⑤他リソース利用の可能性を奪う」です。すぐれたサイコセラピーは、本人の持つリソースを有効に活用し、また本人が自らそれを有効に利用することを促進するものだと思います。

   

「⑥受療中断を招く」については、ケースが現在の治療に不満を持っていて、セカンドオピニオンを求めてきたり、他の医療機関を紹介してほしいと要望してきた場合に、デリケートな問題となります。もちろん、現在の主治医とよく話し合うように伝えることが多いのですが、本人がどうしても納得せず中断になってしまう場合があります。受療中ケースに対して地域の心理士はどのような相談機能を持つか、より深い議論が必要になると思います。

   

「⑦自傷他害ケースへのマネジメント」「⑧できないことをできるという」については、別なエントリーを挙げて詳しく議論したいと思います。特に、自傷他害のリスクマネジメントに関して、心理士は甘い場合がよくみられます。医療機関であれば主治医が入院や保護者連絡などマネジメントしてくれますが、地域においてはそれぞれの場所の管理者と連絡をとりながら、心理士は対応する必要があります。その意味では、医療機関より地域の心理士の方が高いマネジメント力を求められるといってもよいでしょう。

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2005年9月16日 (金)

サイコセラピーに医行為の線を引くということ

何度も議論されていることですが重要なことなので、再び・・・。

サイコセラピーは医行為なのかどうかという議論を、心理職の国家資格化に伴う法律論で考えるならば、afcpさん他が語るように、「医療提供機関=医行為的」「それ以外(地域)=医行為とみなさず」という整理が中心になるでしょうし、これは先の法律案でも、医療提供施設=医師の指示、と整理されていました。

しかし、傷病者へのサイコセラピーは、場所が医療提供機関でなくても「侵襲性が高い」ため「医行為的」となるのでは、という感覚が、たぶん医療関係者としてはなじみのあるものかもしれませんね。医療関係団体の先の法律案への反対意見も、この感覚に基づくものであったと思います。

しかし、地域でサイコセラピーを行う心理士としては、傷病者へのサイコセラピーを医行為とは考えない。「侵襲性の高さ」とその回避を考えながらも、医行為としてではなく、心理相談として対応していくわけです。ですから、地域で心理士の行うサイコセラピーは医行為ではないと、多くの心理士は考えています。

この感覚の違いは、afcpさんとデスマさんの議論でも取り上げられました。そして、感覚の違いはあるとしても、心理職の国家資格化のための法律論整備のために、医行為の範囲を論理的にどう線引きするかが重要という意見になってきたかと思います。

そのような状況の中、厚生労働省医事課の見解の情報が、うろつきさんから寄せられました。

うろつきさん>医行為を法制化にする作業は医事課の範疇となり、医事課では医行為の範囲を具体化する必要があるが、上記の皆さんの議論のごとくその範囲を規定できないといわれました。

うろつきさん>医事課は心理学的な自我への侵襲性は法律の文言として不適切であるとの見解でしたので、医行為の範囲を明確に規定することができなかったのです。

このあたりのニュアンスは重要なので、9/10のエントリーをあげさせてもらいました。さてこの見解は、医療関係者にとっては違和感のあるものでしょう。Afcpさんからは次のような意見がよせられました。

Afcpさん>すると「医師」と名乗りさえしなければ、非医療機関において、明らかな精神疾患を持つ患者にでさえも、治療目的と称して精神療法、心理療法を行うことは、医行為性を持たず、従って違法でもないという解釈になるのでしょうか。

あるいはそれは、医師法には違反しないが、有害事象が生じれば、刑法により傷害罪とされるということになるのでしょうか。

現状はそれに近いのかもしれませんが、違和感は残りますね。

上記で、「治療目的と称して」というところが重要と考えます。「治療」という言葉は日常語でもあり比喩的にも用いられるのですが、地域の心理士はたとえ医師を名乗らなくても「医師の行う治療を連想させるような」治療行為は行ってはならないと考えます。むしろ、地域の場で心理士は、なるべく医療行為とは明確に線引きし、医行為とは違う心理相談であることをクライエントに明示する形で、サイコセラピーを行うべきでしょう。

ですから、地域の心理士は、「白衣をなるべく着ない」「治療という言葉を安易に用いない」「治療という言葉を用いる場合は、“心理的治療”など意味を限定して用い、医行為とは異なることを明確にする」などの配慮が、誤解を解くためにも必要と考えます。ちょっと神経質すぎる感じもしますが、これらは「医という名のもとの侵襲性」を防ぐ意味でも重要かなと思います。皆さんのご意見はいかがでしょう。

そして、これらは資格法の文面で規定するということより、法律運用における通達や心理士の倫理規定で明確にしていく方が、法律的には馴染むのではと思いますが、皆さんはどうお考えですか。

そもそもフロイトは精神科医でしたし精神分析の技術は心理の世界に大きく受け入れられました。一方、サイコセラピーの中で心理の世界で編み出された類は、ただちに医師によって意欲的に取り組まれ洗練されてきました。サイコセラピーの歴史は、医師と心理士とクライエント、他の多くの人々の共同作業です。

ですからサイコセラピーが医行為かどうかの議論が本質論ではないのは百も承知です。その認識をした上で、この日本社会でサイコセラピーをどう法的に位置づけるかいう作業を行うならば、医の文脈のサイコセラピーは「医行為性」を帯びる、心理の文脈のサイコセラピーは「医行為性」を帯びないという整理で進められないかということです。ちなみに、医療提供機関でのサイコセラピーは、心理士が行うとしても、医の文脈下ですから「医行為性」を帯びるわけです。

上記のafcpさんの違和感に関していうならば、「医師」を名乗らなくても、「医師の治療」というニュアンスが高まるほど、「医行為性」を帯び、医師法違反の可能性が高まる、ということではないでしょうか?あとは、法の理念に基づきその違法性を個々に検討し公開していくという感じでしょうか。

ところがこのような話になると、医療提供施設外においても、傷病者へのサイコセラピーの「侵襲性」が懸念として持ち出され、話が堂々めぐりとなります。繰り返しの議論ですね。「侵襲性」議論については、また別にエントリーする予定です。

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2005年9月10日 (土)

霞ヶ関でおきていること・・・「緊ブロ」的検討

霞ヶ関でおきていること・・・「緊ブロ」的検討

今後の国家資格化を考える上で、官僚(霞ヶ関)レベルでおきている貴重な情報をブログコメントでいただいていますので、ここで整理してみました。

Bxq2uwさん>精神衛生法の不備が国連人権小委員会で問題にされ、日本政府が精神衛生法の改正を表明しました。その日本政府というのは当時の精神衛生課です。国連人権小委員会の有力NGOメンバーである国際法律家協会(ICJ)の第一次調査団の勧告(1985)は精神衛生法の改正(1987)に大きな影響を与えました。法改正の効果を検証するために第二次調査団が派遣され、その勧告(1988)の中にPSWや臨床心理士の資格に関する提言が含まれていました。ですから、PSWや臨床心理技術者の資格問題は精神保健法に関連する問題として、その後の精神保健法改正の都度、国会の附帯決議に盛り込まれることになったのです。
ここまでは歴史的事実です。さて、このような経緯で、PSWや臨床心理技術者の資格法制化問題は精神保健課の所掌するところとなったわけです

精神保健(福祉)課が心理職国家資格を何とかしなければならないのは、国会の決議のみならず、国際的な要請もあるということですね。心理職の国家資格化は、心のケア分野において日本が「国際水準」になるために避けては通れない道であるということでしょう。

(ちなみに今回、精神保健福祉課長が異動になりましたので、新しい課長がどう考えているか知りたいところです。このあたりの情報もお待ちしています)

その後afcpさんとの激論の後、

bxq2uwさん>精神保健課が検討会や研究班をやっていたときに、何度も「医行為」のことが話題に出ましたが、そこで医事課と折衝をするとか医事課の担当者を呼んでレクチャーしてもらうとかの話にならなかったのを私は不思議に思いました。そして、医事課を呼んでは何か不都合なことでもあるのかな?と思っていました。そこから、精神保健課は医事課の了解を取り付けてはいないんだなと推測していました。
今回、私が非常に重要な情報だと思ったのは、全心協のホームページに載っていた、昨年の11月16日に資格法案策定に受けて(向けて?)関係者協議を開催という記事です。そこに「自民党議員4名、衆議院法制局、厚生労働省医事課、精神保健福祉課、全心協」とあります。
今まで医事課と同じテーブルにつくことを避けていた精神保健福祉課が、初めて医事課を呼んだのです。そして、その後に出てきたのが医行為に踏み込まない資格案であったわけです。私は「ついに精神保健福祉課が本気で資格を作る気になったな」と思いました。

つまり、医行為であるかどうかを行政判断する医事課が、今回「医行為でない」と判断したということですね。もちろん国会の場や通達などでの見解ではないので、変更の可能性はあるとしても現状での判断として重要でしょう。そして今回、「医行為」に関する医事課の見解と医療関係団体の意見が微妙に異なっているという事態が生じているということですね。

この点に関連して全心協幹部であるうろつきさんから貴重な情報をいただいています。

うろつきさん>医療・保健領域における「場」において、傷病者(カルテを作った人)を「対象」として行う臨床心理学的行為の一部には診断や治療といった「目的」でなされる医行為に該当する行為が存在する。
 そのため場と対象と目的を限定して、医行為に相当する行為を行う臨床心理技術者は医師の指示の下にその業務を行う。
と考えてきました。
 ところが、医行為を法制化にする作業は医事課の範疇となり、医事課では医行為の範囲を具体化する必要があるが、上記の皆さんの議論のごとくその範囲を規定できないといわれました。

さらに、医行為を業務として行う場合には保助看法の解除が必要となり、4年制大学卒を最低受験資格とすることは困難との判断も伺いました。
 そこで、臨床心理技術者の業務の医行為性にはあえて言及せず、医事課の範疇をはずし、チーム医療の業務の中に診療行為を含ませて考え、医師の指示の下とする法案骨子を衆議院法制局と考え出したわけです。
・・・・

これまでの議論からしても、医療領域における臨床心理技術者の業務の中に、診療行為の一部として、医行為性が含まれることはどなたも異論は無いと思います。しかし、医事課は心理学的な自我への侵襲性は法律の文言として不適切であるとの見解でしたので、医行為の範囲を明確に規定することができなかったのです。

この文章を読むと、医事課は「医行為ではない」と判断したというより、「(法律といて)医行為とするには困難があまりに多い」という意見を述べたという感じでしょうか。つまり、医事課は「医行為ではない」という最終判断を下した訳ではないということです。他のコメントでも触れられていますが、法律案上では「医行為」としないが、通達や通知などで事実上「医行為に近いもの」と規定していくという意見もあったのかもしれません。そのようなあうんの呼吸で、医療関係団体も納得したという感じではなかったか?この点は、今後の国家資格議論の上で重要と思うので、うろつきさんの追加のコメントをいただければ幸いです。

とはいえ、厚生科学研究の班研究の見解(医行為である)にもかかわらず、医事課が「医行為である」との判断を示さなかった事実は重要と思います。「自我への侵襲性」という考え方が、法律論上はあいまいかつ抽象的なものと考えたのでしょうね。他のコメント議論にもあるように、「自我への侵襲性」はいろんな分野に拡大されてしまいます。拡大された分野すべてが法律的に「医行為」となる危険性を、行政担当者や法律家は当然恐れるでしょう。この点は医療関係団体と監督官庁との見解の相違なので、そのままにしておくことはできないでしょう。

「医行為としないほうがよい」という医事課の「お墨付き」をもらったならば、精神保健福祉課としては医療分野限定でない汎用資格についても受け入れやすくなったでしょう。文部科学省の「臨床心理士」担当(官僚)チームとの交渉に、国会議員のリードでうまく入り、「文部科学省と厚生労働省の共管資格」という臨床心理士資格をまとめ上げたということですね。

今後のことでひとつだけ・・・。ここまで多くの国会議員も賛同し、霞ヶ関も動いた訳なので、私は次の心理職国家資格法案は、ぜひ政府提案(もちろん一本化した国家資格)で行ってほしいと思います。関係団体からの充分なヒアリングを行い、重要な情報は各団体に文書で提供しながら進めていってほしい。

もちろん、その政府提案を推進する国会議員の方々の力もますます重要になると思います。あすは総選挙ですが、心理職国家資格に理解ある代議士の方々にぜひ国会に戻ってきてほしいと願います。

「医行為」かどうかは、医療関係団体との議論も充分行うことはもちろんです。ただし、医事課が「法律の文言」として不適切と判断している以上、法案では医行為としないが、施行規則や通達、通知などで医行為性に言及し、「外延性」も定義していくというところが落としどころかなと思いますが、いかがでしょう(どなたかがすでに述べていたことと思います)。

もちろん、医行為性に関する検討や議論はまだまだ不充分ですので、「緊ブロ」では鋭意取り上げていきます。

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2005年9月 1日 (木)

こころへの侵襲性をめぐって

医行為をめぐるキーワード「侵襲性」についてafcpさんからこんなご意見をいただきました。

afcpさん
> 「侵襲性があるとすれば医行為である」ということではないでしょうか。この2つは似ているようでかなり違います。
心理行為に限らず人がする事が無侵襲であるということは、ほとんどあり得ないと思うので、無視できない程度の侵襲性があるかないか、というところがポイントだと思います。故に医行為でないとして心理行為を行うならば、その低侵襲性をある程度証明する必要があると思います。

こころの分野に関しては、「侵襲」という言葉の広さ(広義性)が議論の混乱を招いているという気がしてきました。

「こころへの侵襲性」に関していうならば、親の子供に対しての方がより侵襲的な時もある。夫から妻が、妻から夫が強く侵襲されている、恋人からの侵襲、親友からの侵襲・・・。世の中は、こころの侵襲にあふれていて、その侵襲に傷つき疲弊した人々が、心のケアを求める。(「価値観」「社会的役割」に侵襲されている場合もある)

「侵襲」され傷ついた人々が助けを求めにくるので、彼らは敏感であり傷つきやすく依存的にもなる。ですから彼らへのかかわり自体が、「侵襲性」を帯びるリスクがある。傷ついた人に「がんばれ」と励まし、自殺に追い込むほど侵襲してしまうといったことが、日常の会話においておき得る訳ですね。

とすると、「こころにかかわる専門家」は、医師であっても心理療法家であっても、傷ついた彼らへの「侵襲性」をいかに減ずるかへの技術を持ち、「侵襲」されている自分に気づき「侵襲」を観察する力をサポートし、「侵襲」に立ち向かっていける「自分」を回復する援助を行っているということもできるでしょう。日常に発生した「侵襲」から自分を取り戻すプロセスが心の支援の本質のひとつということもできるかもしれません。

このような「侵襲からの自己回復」において、医師は「医」の文脈の基に介入を行い、それを「医行為」というのですね。入院治療や薬物治療は、「医行為」の典型ですね。これらは非常に侵襲的であるけれども、一方で「自己回復」を促すためのプロセスでもある。いや、「自己回復」プロセスにするために、サイコセラピー的関与が重要となるといってよいのかもしれません。

ですから、サイコセラピー自体は、「侵襲からの自己回復」を促進する(目的とする)ものとして定義することが、本質に最も忠実な考え方と思うのです。つまり、サイコセラピーは「侵襲されている人々」にかかわるという意味で、「侵襲的」となる宿命を持つが、「侵襲的であるところに本質があるのではない」ということです。本質は、「侵襲」からその人の自分らしい感覚と判断を回復するためのプロセスの支援にある。そして、そのための知識や技術の体系が臨床心理学の本質といってもよい。

ですから、サイコセラピーが「侵襲性」を理由に、医行為にされてしまうことは、サイコセラピーの本質とは異なる点が強調されているな、本質をわかってもらえていないな、という感覚をもってしまうのです。むしろ、人とのかかわりにおける「侵襲」を減ずる知識とスキルの体系が、サイコセラピーの本質であるからです。

「医の名のもとのサイコセラピー」は、医という文脈で侵襲性を持つことはわかります。医師の言葉は、特別な重みを持って患者さんに受け取られますから。その重みによって多くの必要な介入が行われている。その意味で医行為と言えるのだと思います。しかし、サイコセラピーの本質である「侵襲からの回復」的な性質を、医行為の文脈で上手に利用しているのではないでしょうか。

「心理の名のもとのサイコセラピー」は、医療機関で行われる場合でも、この「侵襲からの回復」という本質的機能が大切なのだと思います。医の世界にありながら、医の持つ侵襲性を減じ自己回復を促す役割が、心理によるサイコセラピーには最も求められているのだと思うのです。そうすることで、医療の質を上げ国民の生活に寄与するということでしょう。

心理士の中には、医師の名(権威)をかりて、忙しい医師のかわりに「医行為的サイコセラピー」を行うことが求められている人もいます。医師は薬物療法、話は心理士、という役割分担において典型的にあらわれやすい。このような発想を自然と考える医師(心理士)は、「サイコセラピー=医行為」も自然なこととして受け入れるのかもしれません。しかし、繰り返しになりますが、このような役割分担は、私はサイコセラピーの本質とは異なる「やむおえないやり方(できれば変えていきたいやり方)」であると考えます。

医師には「医としての侵襲性(影響力)」に気をつけながら(時には利用しながら)、そして「医としての侵襲性」をコントロールするために「医の名のもとのサイコセラピー」を行うことが求められる。一方、心理士は、「医としての侵襲性」とは異なる、侵襲され傷ついた人が持つ「侵襲されやすさ」に充分配慮しながら、「侵襲からの自己回復」を支援する「心理の名のもとのサイコセラピー」が求められていると思います。

そして、国家資格は、上記に述べた ”「医としての侵襲性」とは異なる、侵襲され傷ついた人が持つ「侵襲されやすさ」に充分配慮しながら、「侵襲からの自己回復」を支援する「心理の名のもとのサイコセラピー」” を行う人を国が保障することであると思うし、国民にその名を広く伝え、国民が安心してその名を名乗る専門家を利用できる制度や社会を作ることと考えるのです。

もちろん、「侵襲されやすさ」への充分な配慮には、「限界」「リスク」「依存性」などがキーワードになるでしょうし、心理士にはそれに関する厳しいトレーニングが求められていると思います。

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